人はなぜメル友を求めるのか?
なぜ、ここまで現在の社会にメル友という存在が定着し、人々はメル友を求めているのでしょうか?
その答えの一つにはメル友という特異な存在の需要があげられます。つまり、現代の人々がメル友を求めて止まないのです。
それは、メル友の特徴に深くリンクしており、つきつめると顔が見えない相手とのコミュニケーションというところにあるのです。顔が見えない相手と文章でのやり取りをする、その手段であるツールがメールである、というところは、やはり現実に頻繁に顔をつき合わせている相手とは微妙に異なるニュアンスを持つ友人とあります。
例えば、直接口頭で伝えれば角が立つような事態になりかねない心配が付きまといますが、しかし、メールであれば伝えられるという相手の顔色を伺わないことで伝えられるという心理が働くのです。すると、おのずとメル友という存在は、比較的本音に近い内容でのやり取りになっていきます。本音のいえない社会に変容してしまいストレスの溜まり易い現代社会において、本音で話せる相手が求められ、それを体現しているのがメル友という図式になるのです。
そうなると、気がつけば、自分の中で精神的な繋がりを得られるわけですから、メル友の存在の大きさが時には頻繁に日常で顔をあわせる相手よりも大切な存在として自分の心根を支えてくれる、ということも実際には多く見られるのです。顔を見ながら、相手を傷つけやしないかと逐一神経を使ってしまう場合、自分の本当に伝えたいことは二の次に、相手が欲して居るであろう言葉を探りはじめて、それを相手に伝えるという、非常に気を使ってしまう関係性がそこには生じてしまうのです。
しかし、端から顔色を伺う必要のないメル友であれば、そうした状況が好転して、相手を勘繰る行為が薄れた中で、色濃い本音での対話に流れやすいという事がいえるのです。ここまで、現代社会にメル友が浸透していったのは、そういったストレスフルの社会が背景にあると考えても、あながち間違いではなさそうです。
メル友だからできること
メル友の対にあたる言葉には、現実(=リアル)の友達ということでリア友といわれることもありますが、これら二つを比較すると、メル友は顔が解らないという特徴をもつが故に、良くも悪くも関係を絶つことを容易にさせるという特長をも、もっています。リア友であれば、多少嫌な思いをしたとしても堪忍袋にしまいこまなければいけないこともしばしばありますが、翻してメル友であれば、関係性に惰性や、自分の感覚との不一致などから「合わないな」と感じた時点で、無理にメールを続ける必要はなく、距離を置く、あるいは縁を切ってしまうことも容易なのです。
それはいってしまえば、関係性の希薄さと言い換えられるでしょう。しかし、そういった強制のない、前向きな意味での合わなければいつでもサヨナラできるという開き直りがある分、他方面では、相手にいいたいことをいえるという状態を一層強めるともいえます。
こうした状況が相まって、本音同士のぶつかり合いを恐れることも少なくなりいつのまにかリア友よりも深いところで繋がっているということも、非常に自然に行われているのです。メル友を肯定しがたい人であっても、ひとたびメル友という関係が生じてみると、メル友のもつ居心地の良さに気付くでしょう。
顔が見えないことは、始めであれば不安以外のなにものでもないでしょうが、何度かやりとりを繰り返していくうちに、メル友だからできる話が生じ、メル友存在が自分の精神的な部位に強くリンクし、肥大していることが少なくないという現状にも納得がいくでしょう。